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宮妻峡・不動滝
鈴鹿連峰から流れ出る清流と変化に富んだ岩石が織りなす自然の造形美豊かな渓流。
ここ宮妻峡はキャンプにハイキングにアウトドアファンには応えられない魅力がいっぱい
鎌ケ岳をはじめとする鈴鹿山脈の登山口としても多くの人に親しまれている |
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瀬戸用水と溜池
「水が沢山ほしい」水沢の名のおこりともいわれるように、水沢は地理的に水利が悪く飲み水にも事欠く状況であった。
江戸時代前期、当時の庄屋「辻久善」は水不足の解消は水路を開き溝を配水するしか方法は」ないと考え、大変な苦労をして、内部川上流「瀬戸堰堤」から取水をし、マンボを設け、多くの溜池を築いて田畑を潤した。
現在、水沢町の足見田神社でおこなわれる水まつりでは、辻久善の偉業をたたえる「お諏訪おどり」奉納されている。
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瀬戸用水 |
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光明寺跡
(水沢町字本郷)
自然石の梵字と仏の姿らしい絵が刻まれた小さな碑が杉林の中、見るからに建物の跡地とわかる場所にある。
ここが南北朝時代(1384)僧円霊が将軍足利義満に要請し建立された光明寺跡である。
現在、東西25間(45m)、南北1町(120m)の平坦地は茶園となっているが、織田信長に焼き払われるまで約2世紀の間七堂伽藍をはじめとして如堂所28院を擁して栄華を誇っていた。跡地からは仏具、五輪塔、瓦類などが出土している。
ここから出土した鈴(リン)は現在、常願寺で使われている。 |
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寺里神明社跡
(宮妻)
応永28年(1421)光明寺の守護神として山之坊に寺里五座(八王子社、加茂社、本社神明宮、天白社、土御前社)が鎮座した。
明治43年(1910)、足見田神社に合祀する。旧跡はいつのまにか崩れ、往時を偲ぶものに一対の石灯篭があり、「文化4年(1817)丁丑(ヒノトウシ)」刻まれている。 |
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大福社跡
(谷町)
大福社跡は、鏡谷社とも言うが、社殿は正安2年(1300)に建立され、谷村の鎮守として祀られていた。
大福社から南へ参道があり、鳥居と常夜燈を両側に構えていた。
秋には豊作を祝う祭りが行われた。
明治41年(1908)足見田神社に合祀され拝殿は谷町の消防ポンプ格納庫、常夜燈は谷町の入り口に移されている。 |
谷町の入り口、鈴鹿池のほとりに立つ常夜灯 |
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弘法井戸・弘法杉
(三本松町・谷町)
弘 法大師が諸国巡錫の時の物語りが水沢にもある。むかし、長い間雨が降らず水がかれ飲み水もままならず村人が大変困窮していた時、弘法大師が飲み水を求めた が水がなく断ると大師は不憫に思い、もっていた杖で地面を「トン」と突き、そこからこんこんと清水が湧き出し井戸のようになったという。村人は大喜びで弘 法大師の遺徳をたたえ「弘法井戸」と呼び以来この井戸の水はかれたことがない。
また、大師が、杉の枝でつくった箸で昼飯を召し上がった後、泉のほとりの地面に箸を突きさしそれがやがて根付き芽がふき大きな木に成長したのが、弘法杉とよばれている。 |
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常願寺畑と中川教宏
水沢は全国でも有数の茶生産地帯です。この一大茶産地の礎を築いたのが中川教宏です。江戸時代の後期文化文政の頃に京都に勉学のため滞在した氏は、茶産地である宇治を視察し、産業としての茶業の振興を思い立ち水沢に茶を播いた。これを、常願寺畑という。
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薬師堂
(瑠璃山妙照寺・三本松町)
正応元年(1288)4月の地震の際、不思議にも本尊薬師如来像が大門池南側の大木の枝の上で発見され、それを祀ったものがはじまりである。
その後、元中元年(1384)に堂が建立された。
歯痛、頭痛に効果があると近郷近在より参詣する者が多く、本堂南側に湧き出る清水があり飲用すると歯痛、頭痛をはじめ体の痛みや解毒の作用があるといい伝えられている。毎年3月8日に春の法要が崇敬者によって営まれている。 |
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津田氏陣屋跡
(本町)
戦国時代、織田信長が上洛をめざして伊勢の平定を進める中、当地の坂田丹後守城が兵火により焼失し、加治孫九郎も降伏した。
その後、津田八郎五郎が代官として当地をおさめた |
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加治信濃守城跡
(水沢城跡・本町)
室町時代、足利義持のころ応永5年(1398)加治(一説には森)信濃守が辻瀬戸(今の常願寺境内)に城を築いた。その後天正5年(1577)7代にて滅亡した。
現在常願寺境内の南と西に土累があり、堀は本堂の背後の西側に潅漑用水路として残っている。東側にも一部土累があり、その上に鐘楼が建っている。常願寺は、本郷(現在の宮妻町)にあったものが戦火のためこの城跡に移設されたと言われる。 |
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坂田丹後守城跡
(本町)
正 安2年(1300)国司、坂田信濃守重次が東條本町)の山崎(現在の城山)に城郭を造った。その後応永4年(1397)室町時代、足利義満のころまで98 年間本村を治めたが、3代で滅亡した。その後城郭は滝川一益(織田信長の武将)の兵火によって全滅する。標高150mの台地で、現存する遺構面積は約 260㎡である。 |
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伊勢ケ浜荻右エ門碑
(茶屋町)
江戸時代後期の相撲界で、その名を知られた初代伊勢ケ浜関は宝暦13年(1763)2月3日青木川(現在茶屋町)に生まれ、21歳で入門、名を鎌ケ嶽と名乗り、30歳で江戸相撲界前頭筆頭に進んだ。この時、名を伊勢ケ浜と改めている。
41歳で角界を引退したが、相撲の技量と力量に優れ、人格円満な荻右エ門が京都で、小野川、谷風両大関が自己の力量を誇示せんがために、起こした一大紛議を彼の懸命の努力で和解させた話は、今も言い伝えられている。
文政9年(1826 )3月21日64歳でこの世を去っている |
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青木川古墳群跡
遺物
(茶屋町)
昭和63年(1988)茶園の農地改良工事中に一号墳、平成2年(1990)に二号墳が発見された。併せて青木川古墳と呼ぶ。横穴式石室で玄室の規模は長 さ約5m幅約1.3mで副葬品は高坏、壷などの須恵器、銀張りの耳環、鉄鏃などが出土し、6世紀後半から7世紀前半の古墳時代後期のものと推定されてい る。青木川には、古代双子の豪族がすんでいたとの伝承があり、この二つの古墳は水沢の歴史に楽しいものを想起させる。現在は埋め戻されてもとの茶園になっ ている。 |
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